へんたいサンプル

へんたい収録小説

 

      1、おとなの階段
      2、お返しは?
      3、たまには攻めで
      4、名前を呼んで
      5、???


      なお、サンプルは、1の『おとなの階段』です。
      サンプル故に、いろいろと自重しておりますのであしからず。



おとなの階段

1年は、1月から始まり12月で終わる。
全体の日数で言えば365日。この1年という周期の間にはたくさんの行事が存在する。
1月の元旦に始まり、12月の大晦日で1年の幕を閉じるのだ。

1年の2番目の月。今日、2月14日はウァレンティヌスが殉教した日である。
ウァレンティヌス。はてさて、この名前に覚えのある人は如何ほどいるのあろうか。
この日に彼が殉教したのは紛れもない事実であり、それは揺るぎのないものだ。
いずれにせよ、この場でウァレンティヌスについて語るのはいささか野暮であろう。

彼、ウァレンティヌスはヴァレンタインとも呼ばれている。
これでこの人物が誰なのか、大よその推測が可能なのではないだろうか。
そう、彼こそ世間で知らない者はいない、バレンタインの由来する聖人なのだ。
彼がいたからこそ、今日のバレンタイン行事があり、愛を囁きあう日が誕生したというわけだ。


バレンタインの発祥を知る者は多くはなく、むしろ愛を告白する日だと認識している。
例えば、東京湾を南下したこの小さな島の住人もそうであった。
一月前から今日をどう過ごすべきか、胸をときめかせていたのは一人だけではない。
島の大半がそうなのだ。最愛の人とどう過ごすのか。あるいは、どう気持ちを伝えるのか。


2月14日。この島で働く嘉音は事前に休みを申請していた。
その理由はもちろん最愛の人と過ごすためだった。
だが、他の使用人がいない云々の理由で、結局は望み通りに休みをとることは叶わなかった。
それはそれで仕方がない。
休みの希望など、使用人の自分には過ぎた願いだったのかもしれない、と嘉音はシフトを眺めながら思う。

そしてひとつ溜息を吐く。



2月14日は右代宮家令嬢、右代宮朱志香と新島まで行こうと計画をしていた。
そのためには、嘉音が休みである、というのが絶対条件であった。
休みの希望を出せば、多分休みになれる、そう思っていた。しかし、それは甘い考えだった。
嘉音は2月のシフトが出た日に、朱志香に休みでないことを伝えたときを思い出す。

酷く落胆した顔だった。
嘉音と朱志香は恋人同士になって、まだ一度もデートなるものをしていなかった。
だからこそ、この記念すべき恋人たちを祝福する日に行きたかったのだ。
しかし、それは夢、幻。ただの夢想にしか過ぎない。どう足掻こうと、2人は新島に行くことはできないのだから。


「…………お嬢様……」
「良いんだ。気にしなくても良いんだぜ。
 うん。ほら、新島にはいつでも行けるだろう?
 別に嘉音くんが気にすることはないからさ」
「でも……」
「ほら、きっと14日は人が足りないんだろう。
 だからさ……また、今度行こう?」
「……はい……」
「でも、さ……14日ってずっと仕事ってわけじゃないんだろう?
 いつもみたいに休憩時間は……?」
「……14日は旦那様の付き人として、首都の方に向かいます……
 なので……その、休憩時間は……」
「そ、そっか。父さんと……でも、こっちには帰ってくるんだろう?」
「帰宅は夜分遅くになると思われます」

朱志香は不器用な笑みを浮かべた。
あらゆる可能性が徹底的に排除されている。
14日に休みを与えれば、六軒島で共に過ごす時間を与えることになる。
また、通常勤務であれば、六軒島で共に過ごす時間を与えることになるのだ。
そのすべての可能性を排除した方策が、これなのだろう。

「じゃあ、さ……
 嘉音くんさえ嫌でなければ、お勤めが終わった後に私の部屋に来て欲しいんだ。
 もちろん、疲れているんなら良いんだぜ?
 そのまま休んでくれても」
「いいえ。是非、伺わせて頂きます。
 貴女のためなら、僕はどのようなところでも這って行きます」
「あはは、大げさだぜ」
「僕は真剣です。
 貴女のためなら、火の中、水の中。煉獄の果てまで参ります」
「……っ……そ、その気持ちだけで十分だよ、ありがとう」

顔を真っ赤にしながら朱志香はそう言う。
嘉音は何故だか愛しく思えて、微かに笑みを浮かべた。

「でも……お嬢様もお疲れでしたら、僕のことは気にせず、先にお休みください」
「大丈夫だぜ!
 嘉音くんが帰ってくるまで待ってられるぜ!」
「そういう意味では……」
「それじゃあ、どういう意味?」

一瞬だけ口を開きかけた嘉音だが、少しの逡巡の後、再びそれを閉じた。

「どうしたんだよー」
「いいえ……どういう意味かは内緒です」
「ちぇ、教えてくれてもいいじゃん」
「内緒は内緒です」
「……知ってるんだぜ?」
「なに、をですか……?」

その表情に浮かぶ怪しげな笑みに、嘉音はたじろぐ。
これは常日頃から見慣れている。そう、紗音が悪巧みをするときの表情。

「――――――」

嘉音は顔を引きつらせた。






 □ □ □ □



蔵臼に付き添って、嘉音は早朝に六軒島を出発した。
今日は蔵臼の古くからの友人との食事会、とか何とかで遠く離れた首都へと向かう。
できることなら行きたくない嘉音だが、こればかりは我侭など言えない。
彼は右代宮家から給金を頂いている使用人なのだから。

船と車と飛行機とで乗り継いで、嘉音たちは本州へと上陸した。
毎年、親族会議の際に、蔵臼たち以外の親族はこのような苦労をしてまで六軒島へと足を運ぶのか。
それを思うと何故だか気持ちがげんなりとした。


行きと同じ経路を辿り、嘉音が六軒島に戻ったのは日付が変わる1時間ほど前だった。
蔵臼を深夜勤の使用人に任せ、源次に本日のことを報告すると、すぐにでも休みように言われた。
時刻はもう遅い。深夜勤でもないのに起きている必要はない、ということなのだろう。

確かにこの後、何もなければ嘉音は自室に下がり、まどろみの世界に旅立つはずだった。
だが、今の嘉音には約束がある。朱志香と交わした約束を反故にするわけにはいかない。
使用人室を退出した嘉音は、疲労が蓄積した重い身体を引きずるようにして、朱志香の部屋へと向かった。




嘉音が扉を叩くとすぐに開けられた。
間を置かずして開けられた扉に、朱志香がどれほど嘉音の来訪を待ち望んでいたのかが窺える。
そのまま勢いに任せ、嘉音は腕をつかまれるがままに部屋へと足を踏み入れた。
思ったよりも力強い引きに驚きながらも、すぐ後ろで扉が閉まる音が酷く遠くに感じられた。

「お疲れ様」
「遅くなって申し訳ございません」
「気にするなって。それよりも疲れてるだろう?
 さあさあ、座った座った」

顔を覗きこみようにしながら、朱志香は満面の笑みを絶やさない。
にこにこと、いつも以上の笑みを浮かべながら言う彼女に、嘉音は素直に頷いた。
未だに座ることになれていない。その場所が、ベットの端ならなおさらだ。
朱志香がいつも寝ている場所、と考えると邪な感情が心の隙間に入り込みそうになる。
それを悟られまいと、嘉音は邪心を払うように首を振った。

「……どうしたの? 眠い?」
「いいえ……少し肩凝りが……」
「肩凝り……?
 そっか。父さんに付き合ってたわけだし……本当にお疲れ様」
「ありがとうございます。でも、これは僕の仕事だから。だから大丈夫です」
「……えっと、それじゃあ、肩揉んでやるぜ!
 私にはこれぐらいしかできないけど……」
「肩揉み……そんな滅相な……!」

遠慮するなよ、そう言いながら朱志香は嘉音の肩を掴んだ。

「だ、大丈夫ですから!」
「いいっていいって。遠慮すんなよ!
 こう見えても、肩揉みはお手の物なんだぜ?
「いや、そういうわけではないのですけど……」
「お嬢様に肩を揉んで貰うのは申し訳ない?」
「……慣れていないと言いますか……」
「でもさ、お嬢様としてではなくて、朱志香としてなら?」
「……それなら」
「放課後のゴッドハンドジェシと異名を取る私だぜ。
 嘉音くんに損はさせないから、ね!」

損とか、そういうわけではなくて……と口元まで出かかった言葉を嘉音は、強引に飲み込んだ。
理由は他にもある。ただ、それを口にしたくないだけだった。
違うと否定すれば、朱志香は必ず、どうしてなのか、と問い返す。その問い返しが非常に厄介なのだ。

問われて、素直に答えられるほど、今の嘉音は理性を失ってはいない。
理性が飛べば言えなくもないことだが、理性がすべて吹っ飛ぶには、いささかスパイスが足りていなかった。
そう、あとは隠し味に2、3種のスパイスが投入されれば、すべてが吹き飛ぶ状況ではある。





本人が自称するだけあって、朱志香のゴッドハンドはなかなかのものだった。
力の加減、押すツボ。そのどれもが絶妙であり、得も言われぬ安らぎと快感を嘉音に与える。
それは至福のとき。すべての雑念から解放され、ただ残るのは気持ちよさだけ。

「……どう?」
「とてもお上手、です……」
「だろう!
 これで友だちをよく骨抜きにしてるんだぜっ?」
「……ゴッドハンドの異名を取るだけのことはあります」

えへへ、と肩越しから聴こえる照れたような笑い声。
すべてが非日常的で、もしかしたらこれは夢なのかもしれない。
瞼を閉じて、再び開いたとき、そこは嘉音自身の自室の寂しげな部屋が目に飛び込んでくるのかもしれない。
そう思ってしまう自分自身が酷く滑稽だった。

関係が変わった。共に過ごす時間が増えた。話す内容が、事務的なことではなくなった。
挙げればキリがない2人の関係。それでも、根本的なところは何も変わっていなかった。
変わりたくない、というわけではない。多少、進んだ関係を、と朱志香にしろ、嘉音にしろ心のうちでは思っている。
だが、今一歩足りない。今のこの穏やかな関係から一歩前に踏み出すだけの勇気が足りないのだ。

時計の音だけがその場を支配しかけたとき、ぽつりと朱志香が呟いく。
肩を掴んでいた両手はいつの間に下ろされていた。


「――――もうすぐ今日も終わっちまうよな……残念だぜ」
「でも、こうして会えてる。僕はそれだけでも嬉しいから」
「……っ……わ、私もだぜ。
 それよりも、その……今日中に渡しておきたいものがあるんだ」
「何ですか?」


顔を真っ赤にして出されたのは、ピンク色に包装された箱らしきもの。
それを訝しげに思いながらも、朱志香とその手の上のものを交互に見る。

「今日はバレンタインだから、そのチョコレート……
 本当はもっと早くに渡したかったんだけど……」
「これを僕に?」
「うん……出来はあんまりよくないけど……その本命なんだぜっ!」
「ありがとうございます。とても嬉しいです。開けてもいいですか?」
「うん。もちろん」

朱志香に渡された箱をの包装を解く。
中からは少し形が歪なチョコレートケーキが出てきた。

「紗音から嘉音くんはあまり甘いのが好きじゃないってきいたから、あまり甘くはないと思う……」
「いえ。例え甘くても朱志香さんが作ってくれたものなら、問題はありません」

「嘉音くん…………」

「朱志香さん……」


瞳と瞳が交差する。
周囲にはピンク色の何かが漂い、雰囲気は一段と甘くなった。
嘉音は朱志香の瞳を見つめながら、その口を開く。


「――――約束を破りましたね。
 約束を破ったら、罰ゲームって決まりです」
「え、え、えええ?
 あ、えっと、その…………嘉――――





恋人たちの甘い夜は続く。




 

 

 
 
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